箴言1章
1:1 イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。
この箴言は、ソロモンによって与えられました。箴言は、比喩的性質を持つ格言のことです。
1:2 これは、知恵と訓戒を知り、悟りのことばを理解するため、
これは、知恵と訓戒を知るためです。知恵は、御言葉を受け入れ行う分別です。訓戒は、教えです。悟りの言葉を理解するためです。悟りは、教えの実践に至る過程です。理解することは、それが体得できている状態です。
この箴言が記された目的は、御言葉を受け入れ、御言葉の教えを知り、それを自分の教えとし実行するための言葉を理解するためです。
・「知恵」→神の計画に対する信仰的洞察。御心を信仰によって受け入れる分別。神の御心や計画を信仰によって受け入れ、またそれを用いる分別。その受け入れた知識を語ることも知恵による。
・「訓戒」→訓戒。戒め。懲らしめ。懲罰。訓練。
・「悟り」→行動の基準となる教え。分別。その人の持つ教え。主に「理解する」「見分ける」という意味を表す。異なる要素を区別し、その意味を理解し、十分な情報を得た上で決断を下すという過程が含まれる。
・「理解する」→嗅ぎ分ける。区別する、すなわち(一般的に)理解する。見分ける。理解力、洞察力、識別力。
1:3 義とさばきと公正において、訓戒を受けて、さとくなるため、
義は、正しさのことです。何が正しいことであるのかを知り、分別ある者となるためです。
裁きは、神の評価です。それを知ることで、自ずと行動が定まります。裁きは、良い面と悪い面の二つがあり、神から良い評価を受けるためにはどうしたら良いから知って分別ある者となるためです。良い評価を受け、御国において報いとして永遠の栄光を受けることを望む人は、熱心になります。
公正は、規定を意味し、神の御心を指します。それを知り、その中を歩むために、訓戒としての教えを受け、分別あるものとなるためです。
・「訓戒」→懲らしめ。躾。矯正。
・「さとく」→分別ある。
1:4 浅はかな者を賢くし、若い者に知識と思慮を得させるためのもの。
浅はかな者を賢くします。浅はかとは、その人の状態に対する評価で、なすべき良いことを知らないことです。すなわち、身に着いていない人のことで、賢いとは、それを身に着けている人のことです。
そのことは、後半には、若い者に知識と思慮を得させることとして説明されています。若者は、知識と思慮が足りないので、浅はかなのです。知識は、教えとそれを身に着けていること、思慮は、物事の正しい判断です。
・「賢く」→思慮深さ。抜け目がない、狡猾であるという意味の語源に由来する。肯定的な意味では、知恵や思慮深さ、適切な判断や決断を下す能力を指す。
・「思慮」→計画。思慮深さ。
1:5 知恵のある者は聞いて洞察を深め、分別のある者は導きを得る。
知恵のある人は、御言葉を受け入れ従う分別のある人です。その人は、聞いて洞察を深めます。洞察は、物事を見通す力です。物事の道理がわかること、すなわち神の御心について正しく理解していることで、物事を見通すことができます。これは、箴言や比喩などの御言葉の理解においても同様でそこに示されている神の言葉を正しく理解することができます。知恵のある者は、さらに洞察を得て御言葉を理解できるようになります。
知恵が分別であることが後半の言葉でわかります。分別があるので、導きを得ます。この導きは、主の導きで、実を結ぶ者になるために導いておられます。今日は、聖霊に導かれて、神の言葉を理解し、御言葉に従って導かれ、実を結びます。
・「洞察」→教えを受けること。
・「分別」→識別力。洞察力。見識。
・「導き」→舵取り、すなわち(比喩的に)指導または(暗示的に)計画 。良い助言、(賢明な)助言。
1:6 こうして、箴言と比喩、知恵のある者のことばと謎を理解する。
このようにして、箴言と比喩を理解するようになります。知恵のある者の言葉を理解します。知恵のある者の言葉は、この箴言の言葉のような言葉です。知恵あるソロモンの言葉です。それは、また、謎です。比喩は、謎になっています。例えで記されていますから、その言葉が何を意味しているか解かないと理解できません。謎なのです。
聖書の言葉は、多くが比喩です。歴史の事実さえも比喩になっています。それを解く秘訣がここには記されています。それは、二節から五節まで記されていることです。御言葉を受け入れ、教えられ、それを自分の教えとして身につけ、その中に生きることです。聖書の言葉に従うことで、さらに聖書の言葉を理解できるのです。聖書の言葉に従うことがない人が理解を深めることはできません。
1:7 主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。
主を恐れることがなければ、知識が身に着くことはありません。対比して、愚か者は、知恵と訓戒を蔑みます。そのような者は、知恵すなわち、御言葉を受け入れる分別としての知恵を獲得できません。また、訓戒は教えそのものですが、それが入ってくることはありません。知識は、情報としての教えとそれを体得することです。御言葉を受け入れる分別が働かないことでその中を生きることがないことと、情報としての知識を蔑むことで、それが身に着くことはないのです。
1:8 わが子よ、父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。
1:9 それらは、あなたの頭に戴く麗しい花の冠、首にかける飾りだから。
父の訓戒と母の訓戒は、聞き従うべきです。それを捨ててはなりません。それは、頭に頂く花の冠です。花は、神の栄光の現れです。それが頭に載せられることは、その人が神からの栄誉を受けることを表しています。首にかける飾りです。首は、従順を表します。不従順については、うなじが強いと表現されます。父や母を通して語られる言葉は、知恵の言葉なのです。
1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、それに応じてはならない。
1:11 もし彼らがこう言っても。「一緒に来い。人の血を流すために待ち伏せしよう。咎なき者を、理由なしにひそかに狙い、
1:12 よみのように、彼らを生きたままで呑み込もう。全き者たちを、墓に下る者のようにして。
1:13 値打ちのある物は何でも見つけ出し、奪った物でわれわれの家を満たそう。
1:14 われわれはくじで分け合い、皆で一つの金入れを持とう。」
罪人たちの惑わしに応じてはならないのです。具体的に記されています。
それは、人の血を流す仲間になれという誘いです。相手は、咎なき者です。
1:15 わが子よ、彼らと一緒に道を歩いてはならない。彼らの通り道に、足を踏み入れてはならない。
彼らと一緒に歩むことは、彼らの悪の道を歩むことを表しています。彼らの通り道は、悪の道です。そこに足を踏み入れてはならないのです。
1:16 彼らの足は悪に走り、人の血を流すのに速いからだ。
彼らの足は、悪の道を歩む足のことで、悪に走ります。走ることの意味は、理由として後半に説明されています。それは、人の血を流すのに速いのです。ためらうこともなく、悪を踏みとどまろうとする迷いもなく、すぐに人を殺すのです。
1:17 網を張るのは無駄なこと。すべて翼あるものの目の前では。
すべて翼のあるものは、霊的な存在で天に属している者を表します。
悪者のしていることは、この地のことです。彼がひそかに網を張るのは、無駄なことです。
1:18 彼らが待ち伏せしているのは自分の血を流すため、隠れ狙っているのは自らのたましい。
彼らは、待ち伏せして血を流そうとしています。しかし、その結果としてもたらされることは、自分のいのちを失うことです。彼は人の血を流そうと隠れ狙っていますが、それは、結果として自分のたましいを隠れ狙っているのです。神の御心を行うことで、命のうちを歩むはずのたましいが、神に背く行いによって、いのちを失うのです。
実際に殺人を行うことはないにしても、また、信者であったとしても、他の人を躓かせ、霊的な命に歩むことを妨げるならば、それは、血を流すことです。そのような人が命を経験することはないのです。
1:19 不正な利得を貪る者の道はみな、このようなもの。それを得る者たちはたましいを取り去られる。
それらは、不正な利を貪る者の道として示されていて、彼らが悪に走り、血を流すのは、利得のためです。欲望の実現なのです。そのためには、他の善良な人を害することも厭わないのです。しかし、その利得を得る者たちのたましいは取り去られます。ここでは、たましいの取り扱いとしてその裁きが示されています。たましいが神の御心を行うことで経験するいのちを取り去られるのです。実を結ぶことなく、永遠の報いもありません。これは、裁きとして肉体の命をとり上げることを言っているのではありません。
1:20 知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、
1:21 騒々しい街角で叫び、町の門の入り口で、そのことばを語る。
ここからは、知恵が擬人化されていて、知恵の呼び掛けが記されています。これは、神様の立場からの呼び掛けになっています。知恵は、神の御心を受け入れ、従う分別です。それが神の求めるところです。そのようにしていない人たちに対して、それを求める神の立場から呼びかけられています。
知恵が呼びかける場所は、大通りであり、広場です。多くの人が行き交うところです。そこにいる人々に呼びかけるのです。そこは、多くの人々の活動と声のために騒々しいのです。この世の事柄に皆一生懸命です。町の門は、支配を表しています。これは、経済的な活動ではなく、むしろ統治と裁きの活動です。そのような様々な活動をしている人々に対して呼びかけられています。
1:22 「浅はかな者よ、おまえたちは、いつまで浅はかなことを愛するのか。嘲る者は、いつまで嘲ることを欲するのか。分別のない者は、いつまで知識を憎むのか。
浅はかな者は、知恵について深く考えない人のことです。この世の能力のない人のこととは限りません。彼らが浅はかなのは、彼らがいつまでも浅はかなことを愛するからです。価値のないものに心惹かれ、それを愛することを止めないからです。
嘲る者は、知恵の言葉を嘲ります。その人に、神の前に価値あるものを示しても、その価値を理解せず、むしろ嘲るのです。それをばかにします。価値のないものと決めつけるのです。
分別のない者は、知識を受け入れる分別のない者のことです。その言葉を嘲ることはないにしても、それを価値あるものとして自分のものにしようという分別が働かないのです。これは、信者にも言えることで、本当に聖書の言葉を価値あるものと考える人は、それを受け入れます。しかし、多くの人にとって関心は薄いのです。
・「分別」→知識を受け入れる分別
1:23 わたしの叱責に立ち返れ。おまえたちにわたしの霊を注ぎ、わたしのことばを知らせよう。
知恵は、叱責します。主の叱責です。知恵を得るための叱責です。立ち返るならば、知恵を得させるのですが、それは、主の霊を注ぐことであり、主の言葉を知らせることです。知恵は、主の言葉を信仰によって受け入れ、従う分別です。主の霊によって受け入れることができます。信仰は、主の霊によるからです。また、御言葉を与えることは、知恵の本質を表しています。知恵は、主の言葉を受け入れ、従うことであるからです。
1:24 わたしが呼んだのに、おまえたちは拒んだ。手を差し伸べたのに、耳を傾ける者はなかった。
知恵が呼びかけたのに、彼らは、拒みました。彼らは、主のもとに来るように呼ばれたのです。彼らは、来ようとしませんでした。主に近づくことをしないのです。彼らが主のもとに来るならば、祝福があることを示し、呼んだのです。しかし、彼らは、そこに価値を見出しませんでした。拒んだのです。
主がされたことは、手を差し伸べることであり、無機質な呼び掛けではありません。主の方から幸いを図られたのです。それなのに、耳を傾けませんでした。耳を傾けることは、注意して聞き、受け入れる態度で聞くことです。それをしませんでした。主の言葉は、耳を傾けることで、手に入れることができます。しかし、聞かないのです。
1:25 おまえたちはわたしの忠告をすべてなおざりにし、わたしの叱責を一つも受け入れなかった。
また、忠告と叱責は、彼らに警告を与えます。しかし、それを心に留めることはありませんでした。軽く見て放置しておきました。一つも受け入れないのです。知恵は、忠告や叱責を受け入れます。忠告や叱責を受け入れない人は、知恵を求めていないのです。
1:26 わたしも、おまえたちが災難にあうときに笑い、恐怖がおまえたちを襲うとき、あざ笑う。
1:27 恐怖が嵐のようにおまえたちを襲うとき、災難がつむじ風のようにおまえたちに来るとき、苦難と苦悩がおまえたちを襲うとき、
1:28 そのとき、わたしを呼んでも、わたしは答えない。わたしを捜し求めても、見出すことはできない。
彼らが聞かないので、彼らが災難に会うときに笑うと言われます。忠告や叱責を受け入れなかったからです。恐怖が襲うときには、あざ笑うとまで言われます。忠告や叱責を聞かないことは、それほどに愚かなことであるのです。
彼らを恐怖が襲い、彼らに災難が来る時、それは、苦難と苦悩の時ですが、その時、主を呼んでも答えないと警告しておきました。その時に聞き従おうとしても、もう遅いのです。主は、答えません。たとい彼らが探し求めても見出すことはありません。徹底的に答えないのです。
1:29 それは、彼らが知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの忠告を受け入れようとせず、わたしの叱責をことごとく侮ったからだ。
彼らは、知識を憎んだのです。知恵は、知識を求めます。主の教えを愛して求めるのです。しかし、彼らは憎んだのです。主の言葉を聞きたくないと思いました。自分にとっては、邪魔な存在です。ない方がよいとさえ思うのです。
今日、聖書の言葉に基づく教えが語られるとき、それを喜ぶ人は幸いです。一方で、反発し、聞こうとしない人もいるのです。その不満は、語り手に向けられることもあります。エジプトから出た荒野の旅で、主を求めない人々は、モーセに不平を言ったのです。
また、彼らは、主を恐れることを選びませんでした。主を恐れることは、彼らの選択にかかっています。彼らは、主を恐れるべき方と考えないので、主を恐れることを選ばないのです。
それで、主が彼らのために忠告し、叱責しても聞かないのです。
1:31 それで、彼らは自分の行いの実を食らい、自分が企んだことで腹を満たす。
その結果、彼らは、自分が主を恐れず、教えも求めない、またその忠告や叱責を聞かないその行いの結果を受けるのです。自分が企てたことの結果を受けるのです。腹を満たすほどに十分に受けるのです。恐怖と災難をもう受けたくないというほどに十分に受けるのです。
1:32 浅はかな者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。
浅はかな者の背信は、自分に返ってきます。彼は、よく考えないままに主の言葉を退けるのです。その結果、彼は退けられ、自分を殺すことになります。愚かな者の安心は、自分を滅ぼします。彼らが主の言葉に従うことなく、得ている安心は、災いを招くものであり、彼らは滅ぼされるのです。
今日、信者は、信仰により、永遠の滅びを免れています。しかし、信者であっても、神の言葉を求めず、聞き従うことがなければ神の前には、死です。生きた者として実を結ぶことなく、報いもありません。自分の肉によって、自分がいのちとしている道に歩んでも、報いはありません。まことの命を失うのです。いわば、滅びなのです。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。」
主に聞き従う者は、安全に住みます。悪を恐れることなく、安らかです。悪は、本質的な悪のことです。悪は、サタンの働きです。災難は、神の裁きとして与えられますが、主がサタンに許されて行われます。主の声に聞き従う者について、ヨブの試みのように、主は、災いを許可されないわけではありません。しかし、主の言葉に従う者によって主は栄光を現されるのであり、悪を恐れることはないのです。
・「わざわい」→悪。